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『今日も、明日も歩いていこう』

                                     文:綾瀬川・佐藤(ロッツ)

プロローグ

 どこへ行く時も、二度とピンヒールは履きたくない。折れて使い物にならなくなったときの歩き心地の悪さと言ったら、なんで人間は裸足のままの原始時代を続けなかったのだろう。と、歩いても歩いても辿りつかない家路の途中で思ったものだ。
 2011年、3月11日。誰もがこの日を忘れないと言う。確かに、衝撃的なことばっかりだった。津波も、原子力発電も、自然災害と人災を一気に味わったわけだが、あの日、私は公衆電話から赤いマントのヒーローになって災害を止める事も出来ず、「止まれ!」と叫べば時を止めることが出来る『魔法少女』になったわけでもない。揺れるビルの中で騒ぐだけ騒ぎ、こない電車に溜息をつきつつ歩いて家に帰れば流れるニュースは思いもよらないほど唖然となる衝撃の映像。「ああそうか、私は傍観者でしかなかったんだ」と、溜息をついたことを昨日の事のように覚えている。けれど、時計の針がチ・ク・タ・ク、と音を立てて進み続けるように、流れた涙は過去になる。そう、信じたい。
 あの日以来、私、真壁(まかべ)香美(こうみ)は日記を毎日つけた。『初心忘れるべからず』と言った世阿弥(ぜあみ)の言葉はまったくもってその通りだけど、それを忘れてしまうのが人間の性。苦しい事も、悲しい事も風化して、気付くと同じ失敗を繰り返してしまう。だから、全部忘れないために日記をつけるようにした。今まで出逢った人との楽しい事も、苦しい事も、すべて……。
 一冊のノートにはここ一年の記憶がギッシリと詰まっている。それは、私がボランティアを通して出逢った現地の人や、状況のこと。それにここ東京でのすべてのことだ。今から話すのはその中でももっとも伝えたい重要度一二〇パーセントの話。でも、長いから更に掻い摘んで話そうと思う。
「もっと詳しく知りたい人はWEBで!なんて、言ってみたかっただけだったり……」
一人漫才をしつつ、日記を開くと、そこには一枚の写真と、忘れられた匂いの記憶が眠っていた。

2011年、5月19日

 あれだけの災害。流石と言うべきか、目の前の景色は何も変わっていなかった。次の日、そのまた次の日と、流れていたニュースには波にのまれた街の状況や、いなくなった家族のことがひたすら流れ続けた。鉄筋だけを残して全部流れた庁舎。民家の屋根の上に上がった小型の船。一週間捨てずにため続けた生ごみのバケツをぶちまけてしまったかのような匂い。それは日記で現すことも出来なければ、写真に残すこともできない。
 人間の脳みそはパソコンのハードデスクよりもすごい。残すべきデーターはすべて一人一人の人間の頭の中に詰め込まれ、時代を越えて記憶される。そう言えば、昔の人は文字がなくても歌で歴史を残したり、壁画を描いて後世に伝えようとしていた。壁に、空から円盤が降りてきて、宇宙人と話したことを描いているだけなのに、まるでその瞬間を生きていたような錯覚を起す。そういう衝撃を脳に与えているからだと誰かが言っていたような、言ってなかったような……。今回のことも、きっと今この地にいる子供たちがヨボヨボの年寄りになって、街も何事もなかったように綺麗になっていたとしても、あの日の記憶は永遠に語り続けられるのだろう。
 「忘れてはいけない記憶なんてないけれど、忘れてしまいたくなるほどの衝撃を受けたなら、昨日を夢だと思いたいのが普通でしょう?悪い悪夢なら、今すぐ目覚めたいと思うことが悪い?」
そう言って、そこにあったはずの家の前で自嘲したとある女性。『夢なら』と願ってしまうほどの出来事が、いつか「あんなこともあった」たくさんの出来事の一つにできればいいのにって思えてならない。

2011年8月1日

 ふと、忘れてしまいそうになることがある。それは、東北とここ東京の気温や天候の違い。あの日、東京の気温のことはよく覚えていない。でも、すべてが流されてしまった東北の気温はとてもじゃないほど寒かったのだと人伝いに聞いた。だから、必要なものは、水や食料はもちろんのこと、暖かい衣類だったりと、身体を暖められるものがもっとも必要だった。けれど、数ヶ月経つと今度は洗剤とか普通どこでも買えるようなものが必要になった。街の復興は未来の話しでも、物資の復興は3~4カ月を過ぎた頃から少しずつよくなっていったのだ。
 「やばい!ハエやばいって!」
「このハエ取りテープじゃ、意味ない気がしてきたねぇ」
土日に東北道を通り、それぞれが出来る手伝いをした。その日も、外での手伝いだったが、大量のハエに、思わずハエ取りに来たのかと思うほどだった。でも、両手にハエ取りテープを装備して、ブンブンと飛び回るハエと格闘しても、勝ち目はない。衛星面の悪さで言えば、まだ東京より涼しくてよかったかもしれないが、満ち潮で住居に海水が入ってたりと、問題は山積みだった。
 5か月も経てば、そこら中にあった亡骸は赤い旗に変わっていた。そこに誰かがいた証として立てられた旗は、風が吹くたびにパタパタとなびき、それが逆に痛々しさとか、悲しさとかを一層引き立てていた気がした。

2011年11月20日

 東北の冬は、東京と比べ物にならない。そんなこと分かっていた筈なのに、結露した仮設住宅の天井を目のあたりにして、予備知識の無さを痛感した。
 「家を失くしたって、命があるだけまだマシだ」なんて言うのは現地の姿を見てないからだと怒る住民もいれば、「冷静になればその通りなのかもしれない」と言う人もいる。どちらも間違っていないから、どちらの意見にも「そうですね」と言うけれど、「そうですね」しか言えない自分が本当は嫌だった。だって、口先だけみたいじゃないか。
 「ここはね、指定避難所になってなかったから、ボランティアの人たちがきてくれてよかったよ」
穏やかに笑うおじさんの顔を見て、思わずこちらも笑顔になってしまう。見返りなど求めてここまできたわけではなくても、「ありがとう」とか、「嬉しい」の一言がこんなに嬉しいことなのかと思うと、何かしら行動したことをよかったと思える。
 世界中の人が日本の状態に関心を寄せ、遠いヨーロッパから救助の支援が来たり、赤十字に多額の募金をしたりと、世界は『災害』で繋がっているのではないかと思ってしまうこともある。助けあいの精神は、どの国に行っても同じで、それが同じ日本人になら尚の事結束が高まるものだろう。だから、「今やらなくてどうする!」というリーダーの声に魂が揺さぶられて、ボランティアに参加しようと思った。「意味ない」、「お前たちなんて足手まといになるだけだ。じゃなきゃ、ただの自己満足だ」と言われたけど、それの何処が悪い。ボランティアなんて、間違いなく『自己満足』の世界だ。役に立っているかどうか分かるのは一世紀先の未来で、その瞬間どうかなんて実際のところ誰も分からない。それでも、口先だけの政治家よりずっと足を動かす方がましだ。

2011年12月29日

 一年が終わる時、現地の人たちは何を思って過ごしただろう。去年の一二月。まだ何も起こらなかった頃、来年の結婚を約束した二人、海外旅行に胸を躍らせた家族、卒業まじかに笑いあう学生。目を閉じて神社で手を合わせた。
「神様、来年もいい年でありますように……」
そんな簡単な願いすら叶わないなら、今年はなんて願えばいいの?
 けれど、願うことは変わらない。
「神様。来年も、家族が健康に過ごして、皆にとっていい年でありますように……」
いつもと同じように願う中で、いつかは何も変わらない景色の中で、「来年も今年のように」と、付け加えて祈れる時が来るのかもしれない。そうそう、今年一年で思ったんだ。
やっぱり日本人はどこか「強い」んだってね。

2012年2月2日

 年が明けても、大きく変わったことは何もなかった。「もうすぐ一年」の言葉を筆頭に様々なところでチャリティ関連の動きがあるけれど、それでも人々の興味は『地震』や『津波』より、未来に起こる『関東大地震のニュース』に移っていた。高速道路の料金が一般車と同じ料金に戻ることで消えたボランティア団体。初めの頃はそこら中にいた団体も、今や十本指に収まる程度。それがなんとも言えないむず痒さを生むけれど、たった一人の力では何も変えられない。
 先立つものがなければボランティア団体だって活動を続けられない。そう言う意味で潰れてしまった団体は数知れず。政治家の手の届かない、行政の下にいない現地の人はまだまだ多くの助けを求めているのに、何も出来ずに終わりの鐘が鳴りだしていた。

2012年3月11日

 ちょうど一年。花も、木も、民家も、お店も、何十トンもある船すら流されたあの日から、あっという間の一年。私は聞きたい。まだ家族を探している人がいることを知っていますか?突然独りぼっちになった子供たちがいることを知っていますか?どうやって生きていけばいいのか分からなくて、せっかく助かった命を自分で捨ててしまう人がいる事を。何もかもそろっている東京で暮らしていて、今日の東北を映すニュースすら流れない毎日で、情報を掴むことは出来ていますか?
 もしかすると、半分の人は首を縦に振るかもしれない。それなら嬉しい。だけど、もう半分の人たちには過去の話しになっているんでしょう。知らないことは『恥』じゃない。けれど、知らないままでいないでほしい。何もしないことは悪い事じゃない。人それぞれの心も、仕事もある。けれど、『知らない』ことを『良し』としないで欲しい。

2012年4月4日

 真冬に咲いた季節外れの桜の花を見て、誰もが感激した。
「海水に浸かっても、まだ生きていたんですね。こんな変な時期だとしてもそれが嬉しい。もしかすると、元気をなくした私たちのために早咲きしてくれたのかもしれない」
と言って、笑っていた。
それを見て、私たちはボランティアの一環で、海水に流された土地に花の種を植えることにした。それまで色々な失敗もあったけれど、植えた後には私たちボランティア団体も、現地の被災者も、同じようにみんなで色とりどりに咲き誇る花と東北の未来を想像した。

エピローグ

 色んなものが流されてしまった。それは大事な人や物。仕事、何かもすべて。忘れたくても忘れられない記憶。ちょっとしたことで思い出すあの時の恐ろしさ。誰もいなくなった新しい部屋で、誰に想像できることもなく生を諦める人。若い家族を失くし、一人生き残った老人。結婚を約束した相手を失くしたカタワレ。昨日までどうやって生きていたか分からないのに、今日をどうやって生きていいのか分からない。今日が分からないのに、明日をどうやって生きればいいのか……。気付いたら一年経ってしまって、「もう駄目だ」と呟いたり、『復興』しなくていいから過去に戻してくれと嘆く人と、『復興』を目指して前に歩き出す人。どちらかに手を貸して、どちらかを放っておくなんてしたくない。だけど、「死にたい」気持ちを止められるほど、心理のプロじゃない。
だから私は、いや私たちは、これからは物資や力仕事のボランティア活動じゃなくて、小さくて、消えそうな『心の囁き』に耳を傾けるってことをやってくべきだって思ってる。 だって、これから先の未来を担うのは若者でしょう?その若者が足を止めて、何もしないなんてそんなの勿体ないじゃない。
 「三日坊主の私が日記を続けてるって凄くない?」
現地へと向かう車の中で仲間にそう声をかけると、ため息交じりに「飛びっ飛びすぎだけどね」と返された。大切なのは継続力で、毎日書くことじゃない。
「でも、大人になってみたって何があって、何をしたって一発で分かるよ」
「もう大人でしょ!」
笑い声が混じる車内で、重たい雰囲気を出す人間なんて元からいなかった。これから行く場所が明るいだけじゃやっていけないようなところでも、笑顔は人に伝染するから。
「子供が生まれたら、ママがやってきたことを教えられるんだよ?やっぱりすごいって。みんなもやれば?」
「子供の前に結婚相手が見付かるといいねー」
ハンドルを握りながら笑って言った言葉に、少し怒って、でも同じように笑った。明日も同じならいい。あさっても、その次の日も、同じように笑顔で。そして、それが今辛い人にいい意味で感染して欲しい。そうすれば、きっと明るい未来は扉の向こうで待っていてくれる。
 『悪いことがあったら、次はそれよりもいい事が起こる』って誰かが言っていたけど、本当にそうなら、きっと未来はキラキラ輝いている。だから、私たちはそれを信じて今日も車を走らせる。

                    終

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